近藤文庫

近藤康男(こんどう やすお) 年譜

 一八九九(明治三十二)年、愛知県岡崎市の農家に生まれ、農業経済学者として一筋の途を歩む。一貫して農民の立場から実証的研究を進め、マルクス経済学の視点で農業問題の研究を社会科学として確立した。

我ら何をなすべきか

 一九一八(大正七)年の米騒動を身近に体験したあと、一九一九年に第八高等学校に入学し、仲間と共に「我ら何をなすべきか」を議論し、建築科志望を変更して農村問題に取り組む農業経済学を選んだ。

東大農学部に入学

 一九二二(大正十一)年四月、東京帝国大学農学部に入学した当時、水を得た魚のような安堵を感じた。農村・農業問題研究を一生の課題とする途についたからである。

農村調査の初体験

 大学三年生の時、修学旅行で東北・北海道の各地を見学した。樺太からの帰り、近藤一人で北海道の元屯田兵村だった永山村の土地移動調査を行い、土地台帳の重要性を認識した。これがその後の農林統計調査や農業問題研究の大きな支えになった。この時の調査報告が佐藤寛次教授に認められ、卒業後研究室の助手に任命された。

チューネンから『農業経済論』へ

 昭和農業恐慌期の代表的著作は、『チウネン孤立国の研究』『農産物生産費の研究』『農業経済論』である。
 一九三一(昭和六)年、東大助教授になった直後から執筆を始め、三二年に完成した『農業経済論』は、資本主義と農業を論ずる農業経済研究の方法論を提示し、それに基づく体系を示すものであった。

博士論文となった葉たばこ生産農家の調査

 一九三七(昭和十二)年に刊行した『煙草専売制度と農民経済』は、葉たばこ生産農家の立場で専売制度を批判し、農業問題は独占資本との闘いであることを明らかにしたものである。
 一九三四(昭和九)年、調査に参加した古島敏雄など農業経済学教室員・学生は、葉たばこ農家に泊まり込み、多くの実態を体験的に知ることが出来た。

屈辱の『農業経済論』改訂

 戦争の拡大とともに思想弾圧が進められた。
 一九三五(昭和十)年、東大助教授のまま、新設の東京高等農林学校教授を兼任したとき、文部省は校長を通じて『農業経済論』の改訂を指示した。当時、近藤は高農の図書館長でもあった。近藤は、のちに「四六〇ページの本にかなり改訂を加えて二二〇ページに圧縮する作業であって、屈辱に満ちたものであった」と語っている。

戦時体制下の農林統計改正

 一九三九(昭和十四)年、日中戦争の深化に伴い確かな統計が必要になったと有馬頼寧農林大臣から要請されて農林省の統計課長に就任した。
  「使える統計」を合い言葉に、二年を費やして「農林水産業調査規則」を全面的に改正した。一八八三(明治十六)年以降初めての大改正で「近藤改正」と言われている。

「満州」農業移民地の視察

 農村窮乏の原因を農村人口過剰・農業経営規模の零細性に求める考えに基づき、農村の経済更生には過剰人口の処理が必要とする考え方と、満州支配の基礎として農業移民を求める関東軍の要求が結びついたのが満州農業移民という国策であった。一九三八(昭和十三)年、農村更生協会の企画した満州農業移民地視察団が組織され、近藤は視察団長として参加した。
 その間の事情が二〇〇一年に著した『三世紀を生きて』に反省とともに詳述されている。

東大追放の発端となった著書

 一九四三(昭和十八)年、東大事務局が近藤の『転換期の農業問題』に赤線を入れてきた。時の総長は「近藤は農業発展の理想形態はロシア農業にありと考えている」と認め、「自発的辞職かしからずんば休職にする」という。
 一九四三年八月六日付けで辞職した。

東亜研究所

 東大辞職後まもなく東亜研究所に入って第一部長兼自然科学部長となった。
 当時、小金井にあった農園で所員の野菜作りやさつま芋作りの指導をする役目も引き受けた。

戦後 農村民主化と『貧しさからの解放』

 一九四五(昭和二十)年八月、敗戦となって言論の自由が回復した。近藤はラジオ、新聞、雑誌などに農村民主化、農地改革の論陣をはった。翌年、東大に復職すると共に、社会の要求に対応し、研究の分野も広範にわたった。
 同じ志をもつ研究者が集まり、一九五二(昭和二十七)年から共同研究『貧しさからの解放』を発表し、後に単行本として刊行された三部作はベストセラーになった。
 また、一九五一(昭和二十六)年に刊行した『農地改革の諸問題』は翌一九五二年の「毎日出版文化賞」を受賞した。

農文協理事に就任

 一九四七(昭和二十二)年、農山漁村文化協会理事に就任、以後現在まで五八年間在任し指導に当たる。

初めての海外出張 北京で国慶節に参列

 一九五七(昭和三十二)年、中華人民共和国を初めて訪問し、農民の解放、土地改革の実状を見学した。
 国慶節に参列し、周恩来総理の招待宴に招かれた。

著作集の刊行

 一九七四(昭和四十九)年、農文協から近藤康男著作集の刊行が開始される。 「農村の人たちに読んでもらうため」という意図に添い、読み易く、必要によっては改訂もしたいと、全巻にわたって初版の発行された背景やねらいを解説し、校正も引き受けた。

ドイツ・チューネン協会の名誉総裁に

 一九九六年九月、ドイツ・テローにあるチューネン記念博物館において行われたチューネン協会の年次集会で、同協会の名誉会員第一号に選ばれた。


 続いて二〇〇二年三月に来日したチューネン博物館長バルツ氏から同協会の名誉総裁の称号を贈られた。
 『チウネン孤立国の研究』と『孤立国』の翻訳・刊行の業績を評価されたものである。

農文協図書館・近藤文庫

 農文協図書館には、近藤康男文庫がある。大正時代から集めた図書や統計書のほかに、自ら関わって調査し記録したデータが保存されている。農文協図書館インターネットのホームページで目録が公開されている。

家庭菜園

 東京・高井戸に居を構えてから六十年余り、自宅の庭はほとんど畑にし、自給菜園としてきた。東大駒場農場で身につけた鍬を使い、数種の野菜・果樹の栽培管理は健康を保つのにも役だった。
 最近は、チューネン協会から贈られたドイツ柏樹の生長を見るのが日課になっていた。

色紙「活到老 学到老」、一九九七年白寿の祝いに

 中国の格言から。「歳をとっても活発に生きよ老練になるまで学べ」の意。